帯状疱疹と東北旅行
昨年秋頃から以前に出版した『逐条註解 国籍法』(日本加除出版、2003年)の改訂の作業に取り掛かっている。そのため昨年11月に平湯温泉へ行き、前注と第3条の部分を中心に原稿を書いた。国籍の性質を社会契約の基づく法律関係と捉える見解を基礎にして日本の国籍法を見直すことが本書の特徴の一つであった(前掲著書3頁以下)。この点については、従来法的地位説と法律関係説の対立があるが、わが国の多数説は、その両面があるとみてこれを重要な問題と認識していないように思われる。しかし、この問題は、国籍の基礎となる法律関係の捉え方次第では極めて重要な論点となり得る。少なくとも現在の民主主義国家の国籍を考えるとすれば、社会契約に基づく法律関係として捉える方が実態に適合したより適切な理論であるように思われる。国籍を法的地位として捉える見解は、国民を支配・服従の対象とみて、もっぱら国家の利益の観点から国籍を決定すればよいとする見解を支えてきたように思われる。明治憲法の下では、学説上は異論もあったにせよ、主として国籍は臣民の地位に関するものとして位置づけられてきた。日本国憲法においては、国家の基礎を「主権の存する日本国民の総意」に求めている(憲法1条参照)のであるから、国籍の性質をその規定とも関連して根本的に考え直されなければならないはずである。ところが、昭和25年(1950年)の新国籍法制定の際や昭和59年(1984年)の父母両系主義の採用等に関わる国籍法の大改正の際にも、この根本問題にはあまり触れられていない。
私はこの問題を国籍法の基本問題と位置づけ、考えてみたいと思った。社会契約論といえば、ルソーの『社会契約論』等啓蒙期の理論を思い出す。ヨーロッパ諸国の議論をみれば、これについても一定の展開がある。例えば、1980年夏にスイスのオーベル・ベルナーランドで行われた、チューリッヒ大学のレービンダー教授のドクトランテンセミナーに参加した際に、労働法上の諸種の問題を社会契約論の観点から説明し、主張しようとする報告に出会った。また、前掲書執筆時において国籍を社会契約説の観点からとらえる文献があることは認識していたが、従来の著作以上に深めた議論を展開することはできなかった(前掲著書7頁参照)。2007年3月から2008年3月まで早稲田大学からハーヴァード大学ライシャワー研究所への留学の機会を得た。国際知的財産法の体系書をまとめるための留学であった。私は、ここで現代社会における新しい正義論の基礎を社会契約に求めるロールズ(John Rawls)の一連の著書に出会った。ロールズの理論は、ハーヴァード大学を含む少なくともボストン在住の多くの学者に大きな影響を与えているようにみえた。科学の発展や社会の変化に伴って生じる新しい知的財産をどの程度、どのように保護すべきかの基準をロールズの社会契約論の観点から求めることができないかを考えた。しかし、この点はわたくしの著書『国際知的財産法』(日本評論社、2009年)には明確な形で書き込むことはできなかった。国籍法の書物の改訂の際にもう一度試みたいと思っていた。平湯温泉という思索にはよい環境で考えをまとめようとした。
作業を試みて3日くらいで体調に異変を感じた。左の脇腹に強い痛みを感じた。温泉に入り、リラックスしながらのこととはいえ、室内が冷えて若いころから持っている肋間神経痛が出てきたのかと思った。平湯にはこの時期見てもらえる医院はない。予定の最後の日の6日目に温泉で一緒になった人から、「太ると大変ですね。」と声をかけられた。後で考えてみると、私の体に出ていた帯状疱疹を太っているために前がよく見えず階段を踏み外し怪我をしたものと勘違いされたようであった。東京に帰ってからすぐに私の家庭医に電話で相談した。土曜日であったので診断日ではなかったので、差し当たりあらかじめ風邪のために用意していた「ボンタール(消炎、鎮痛、解熱剤)」を服用しておくよう家庭医から指示を受けた。近所の「大同病院」であれば、救急指定病院であるのですぐにでも診てもらえるが、家庭医の指示を受けたので、そこまでしなくてもよいかと考えてしまった。帯状疱疹にはよく効く抗生物質が開発されている。しかし、この薬は症状が出てからできる限り早く服用する方が効果があり、使える期間の限度は2,3週間に限られることを後で知った。私の帯状疱疹は手遅れになったのか、その後なかなか治らない。3歩進んで2歩下がるという状態で、なかなか完治しない。とくに原稿に集中しようとした後に痛みがやってくる。
どこかで気分を転換して元気にならなければ、いつまでも病人の気分になってしまう。この際思い切って「大人の休日倶楽部パス」のJR東日本全線、4日間利用可能、15000円を手に入れて6月20日から23日までこれまで行っていない青森の温泉などを巡る旅に出ることにした。20日東京6時発の「はやぶさ45号」に乗り、9時17分に新青森駅に着いた。東京では曇っていたが、青森では天気は良さそうであった。駅でJRバスの十和田湖方面に行くバスについて聞いた。「みずうみ8号」10時10分発までないという。十和田湖方面に行くのであれば、「青森・八戸、十和田湖フリー切符2日間」5000円が割り得であり、近くのローソンで販売しているとのことであった。新青森の駅は、何もないところに建築したものであるから、どのように行けばよいのか分かりにくく、ローソンを探すのに苦労した。それでも10時10分発のバスに間に合った。八甲田山の前岳、赤倉岳、大岳が見える高原を経て10時56分に萱場茶屋に着き、7分間のトイレ休憩。付近の高原で取れた大麦を原料にした長寿の茶を買った。11時20分頃にロープウエイ前に着いたので、下車。標高差650メートル、走行距離2459メートルを10分で登る。頂上に向かって左手に晴れていれば岩木山が見えるはずであるのに、霧に閉ざされていて見ることができなかった。登り切った田茂泡岳の山頂公園駅には、売店、食堂のほか、展望台も整備されている。高山植物をみるための遊歩道も整備されており、1時間と30分のコースがある。山腹のある箇所から細長く天に伸びて発育する雲が見えた。雲の動きが速く、大岳、井戸岳、赤倉岳の山姿が見え隠れする。私は、道が湿っており、山麓駅に荷物を預けずに来てしまったので、遊歩道を散策することを諦めて、3階の食堂でソバと小カレーライスのセットを食べ、帰りのロープウエイに乗った。14時43分のバスで酢ヶ湯温泉に向かった。
本日の宿は酢ヶ湯温泉旅館である。ヒバ千人風呂が有名であり以前から一度訪れてみたいと思っていた。正面玄関から比較的近いトイレ付きの湯治客用の部屋は清潔に掃除され、ふっくらとした布団がたたんで置かれている。部屋に着くと、早速千人風呂に行ってみた。天井、壁がヒバでできた大きな建物の中にある湯船には、白濁の湯がはられており、これまでに訪れた温泉で感じたことがない独特の風情が感じられる。熱湯、4分6分の湯の二つの湯船と打たせ湯があり、湯船は男性部分と女性部分が立札で矢印により区別されている。二つの湯船の温度はそれほど異ならないように思われた。夫婦と思われる男女が和やかにこの区切りの付近で肩を並べてゆったりと入浴している。混浴に抵抗感がある女性もいるためか、女性の入り口には見えないように塀が建てられている。湯の成分は酸性が強く如何にも体に効きそうである。私は二つの湯船でゆっくり温まった後に、打たせ湯も堪能した。他にも男性と女性の専用風呂がある。夕食は湯治客用と旅館客用に部屋が分かれており、湯治客用の食事は、蓮根などの煮物や漬物等お菜の種類は多くないが、豚汁に似た具沢山の味噌汁とごはんはお替り自由であり、十分満足できるものであった。千人風呂2回、男性専用風呂1回の計3回入浴したが、温泉の成分が濃いためかそれ以上入浴できなかった。
6月22日9時20分酢ヶ湯温泉発のJRバスみずうみ4号で猿倉温泉、蔦温泉、奥入瀬渓流などを経て十和田湖畔の中心地休屋のバスターミナルに11時頃に着く。途中白樺や青森トドマツなどの林の緑と、ところどころにみられる澄み切った小さな池の美しさが印象に残った。10分後に子ノ口行きの遊覧船が出るというので、急いで切符を買って乗船した。休屋から徒歩15分の所にある高村光太郎作の乙女の像には行かず、遊覧船の上から眺めるだけになったのは少し残念だった。遊覧船は、西湖を出て一番深い中湖を経て、東湖を横切りバス停のある子ノ口に至るAコースである。十和田湖は、日本で三番目に深い湖である。周囲から流入する川はなく、カルデラから湧き出した水により湖水が埋められている。透明度が高いきれいな湖水が独特の色を見せている。湖面にはいろいろな形の岩がみられ、その岩の上に生えている松やその他の樹木の緑が湖面に映り、鮮やかである。十和田湖という名称は、岩の間のみずうみを意味するアイヌ語に由来するという。湖に突き出している御倉半島には水越と呼ばれる地域があり、水が多い時は水が入りその一部が湖面に浮かぶ岩のようになるところがある。時間があったので、子ノ口からJRバスに乗り一旦休屋に戻り、12時10分発の「おいらせ22号」で八戸駅に向かった。バスは、十和田湖から唯一流れ出ている奥入瀬川沿いの奥入瀬渓谷を進む。透明度が高いきれいな水が流れる渓流、その流れの中にある岩の上に生えた苔や樹木、渓流に注ぐいろいろな種類の滝、渓流に沿って作られた流れをほぼ同じ位置でみることができる遊歩道などがあり、バスを降りて散策したくなるところがあったが、バスの時刻との関係もあって諦めた。ともかく樹木の緑と清らかな水の流れが印象に残った。バスは奥入瀬渓谷を過ぎれば、農村地帯を走り抜ける。バス停の表示を見ていたら「折茂」という文字が目に飛び込んできた。この地名が国際私法学者として高名な折茂豊先生の姓と関係があるかどうか分からないが、なんとなく気になった。また、六戸付近の道路では「日本一のニンニクの町」という表示がみられた。青森名産の大粒のニンニクが主としてこの町でとれることを知った。14時25分頃に八戸駅西口に着いた。丁度青い森鉄道線の青森行きの列車が14時48分にあったので、これで青森駅に向かった。途中航空基地のある三沢では多くの客が降りた。下北半島の方に行く支線との分岐点である野辺地駅を過ぎると列車は海岸線を走行し、景色がよくなる。浅虫温泉の付近の海岸は景色の良いところであった。棟方志功が愛した宿、椿館に泊まってみたくて予約を入れようとしたが、あいにく満室で止まれなかったのは少し残念だった。青森駅に近ずくと高校生と思われる学生で車内が混んでくる。16時22分に青森駅に着く。駅の近くの青森セントラルホテルに予約してあった。このホテルは温泉施設が利用できるので、他の条件をあまり考慮せずに選んでしまった。ホテルから部屋着でも行ける温泉施設には、周囲の街の人たちが利用されるようであり、広いサウナや内湯のほか、露天風呂もあり快適であった。
6月22日、9時30分にはホテルをチェックアウトして9時52分発の弘前行きの普通列車に乗った。10時41分に弘前駅に着いたが、雨が降っていた。屋内でのおすすめの観光施設を駅の観光案内所で尋ねたら、これから出発する市内巡回の100円バスで行ける「弘前ねぶた村」を勧められた。ここは弘前のねぶたを展示するほか、ねぶたの時代的な移り変わり、青森ねぶたや盛岡のねぶたと比較した場合の特徴なども分かるようにされている。例えば、掛け声も、青森ねぶたが「ラッセ、ラッセ、ラッセラ」であるのに対し、五所川原の立佞武多では、「ヤッテマレ、ヤッテマレ(やってしまえ)」とより 勇壮になる。能登の輪島の近郊の「ごじんこ太鼓」と同じように、ねぶた祭りも町の隆盛さを誇示して外敵から町を守ることが起源だったのではないかと思った。「山絃堂」で一日9回10分ほどの津軽三味線の演奏があり、迫力ある演奏を身近で楽しむことができる。津軽焼、弘前こけし、津軽凧などを作る工房が入っており、気に入った品を購入することもできる。一回りすると池のあるきれいな庭を経て出口に向かう。このすぐ近くに弘前城の北門があり、すでに雨があがっていたので、ここから天守閣、資料館などをみて大手門を抜けて市役所前のバス停から弘前駅に帰ることにした。弘前城を歩いているときに疲れが出たのか、帯状疱疹のビビッと来る痛みが感じられた。帯状疱疹と決別しようとして旅に出たが、なかなか思う通りには行かないものである。
弘前駅14時30分発のリゾートしらがみ4号でウェスパ椿山駅に向かう。この列車は、4両編成であるが、普通車指定席のほか、それぞれの車両に特徴があり、展望室やカウンターのある車両、縦長で寝転ぶこともできるボックス席の車両がある。「五能線の旅」というパンフレッドや乗車記念のスタンプを押すことができる台紙も無料で用意されている。車内では津軽地方に伝わる民話の語り部や津軽三味線奏者の実演もある。板柳付近まで進むと車窓の左手のリンゴ畑のはるか向こうに津軽の名峰、標高1625メートルの岩木山が見えてくる。岩木山の形はここからは漢字の山の形に見えるが、日本海に面した鰺ヶ沢方面からみると先端が尖ったように見えるという。ただ本日は曇っていてはっきりと確認することはできない。30年余前であっただろうか。大阪空港からJALに乗って千歳空港に向かったことがあった。下に見える岩木山が遠くから見えなかなか視界から消えなかったので、スケールの大きな立派な山であることを知ったことを思い出す。千畳敷というこの沿線の名所では、列車は15分ほど停車し、乗客は海岸近くまで行ってその景観を楽しむことができる。海岸の海面近くに広い平坦な岩が広がっており、近くの岩山がウミネコのねぐらになっているようである。ウミネコは人間慣れしているのか、千畳敷と表示した石造りの表示板の上に1羽が止まり、人が近づいても平然としてあたりを興味ありげに見渡している。近くの民宿では一夜干しのイカを焼いたのやせんべいを売っていた。イカはおいしそうだったので食べてみたかったが、私の前で残念ながら売り切れてしまった。列車は16時53分にウェスパ椿山駅に到着した。駅のすぐ前に2台の大きな送迎用のバスが待っており、約10分くらいで黄金崎不老不死温泉に到着した。
この温泉は黄金色の湯と波打ち際にある瓢箪型の露天風呂が有名である。旅館に到着してからすぐに海岸の混浴露天風呂に向かった。気を付けないと大量発生しているブヨに刺されるとの注意書があったけれども、天候がよくないためか大丈夫であった。ただ、湯の温度をかなり熱めに設定してあるのか、長く入っていることはできなかった。室内の大浴場ではサウナも含めて施設が充実しており、帯状疱疹も少しは良くなるかと思われた。夕食は海岸が見渡せる眺めの良い部屋で新鮮な魚介類と地元でとれた山菜を中心としたおいしい料理が出たので、つい生ビールも注文してしまった。
夕食後今回の旅行を振り返った。体力的には十分ではなかったが、自分に少し負荷をかけて帯状疱疹に悩み、自信を失っている状況を脱却したいと考え企てたものである。若い時に夏に敢えて3000メートル級の山に登ろうとしたのと同様の試みであった。これで十分に立ち直れるかどうかは分からない。旅行の途中にも鋭い痛みを感じたからである。しかし、これまでやりたいと思いながら行えなかった青森への一人旅を実現することができ、やればやれるという気持ちを取り戻すことはできた。体力が弱くなり、若い時のようには元気が出ないとしても、毎日少しづつでも前に進めば、何時かは目標とした地点に到達することができるはずである。やれるかやれないかではない。結局目標を見失わず、毎日体力に合わせて少しづつでもやるかどうかなのだ、と思い直した。