寸又峡温泉と金嬉老事件

9月1日(日)、翌日から3日間、静岡県の「コンべンションアーツセンター、グランシップ」で開催される「2019年度国際法学会研究大会」に出席するために静岡市を訪れた。今回は学会出席の前にこれまで訪れてみたいと思いながら実現することができなかった寸又峡温泉を訪れることにした。1968年2月20日夜に清水市のクラブで知人2人を射殺した在日2世の金嬉老(当時39歳)が、スコープ付きライフル銃と実弾1200発、ダイナマイト13本で武装して寸又峡温泉の旅館「ふじみや」に逃げ込み、館主一家と客の合わせて39名を人質に取り、88時間余籠城した事件の現場を見てみたいと思ったからである。この事件の特徴は、金嬉老が自らの体験を基礎に日本の社会における在日韓国人の扱いに関して問題提起をし、それが自己の行為を引き起こす原因となっていることを訴えようとしたところにある。金嬉老の行為を身勝手な犯罪行為の弁明として新たな犯罪行為を引き起こしたものと非難することができよう。しかし、自らの借金をその所有した自動車を売却して返済したにもかかわらず、借用書が暴力団に渡り、脅迫されたので、それに関連する2人を殺害したというものであり、同情すべき事情もあるように思われる。金嬉老は、おそらくそれ以上奥に行くことが難しい山深い寸又峡温泉に逃げ込んで、自らの人生を振り返り、最後に命を懸けた行動をとったのであろう。そのような場所として選ばれた寸又峡温泉に興味があった。

私は、早稲田大学を定年退職した後に赴任した名古屋学院大学法学部に勤務していた頃、三島由紀夫の『潮騒』の舞台になった神島を訪れたことがあった。この作品は、三島が29歳であった1954年に書かれたものであり、ギリシャ語で書かれたローマ時代の小説「ダフニスとクロエ」を手本にしていた。伊勢湾に浮かぶ小さな小島(小説では「歌島」とされている)に住む純朴な若い男女の恋愛を描いた小説である。三島がこの小説のアイデアを得て、舞台を神島に求めたのはなぜであろうか。ある夏の終わりの日に、近鉄で伊勢に行き、神島に立ち寄る連絡船に乗り、神島に向かった。伊勢湾と伊良湖岬の中間にある小島であった。日帰りの予定で帰りの船便まで時間がなかったので、急いで神社の長い階段を登り、海神を祭った八代神社を経て、島の頂に近くにある灯台の道を往復した。家を建てるのに適当な平坦な土地が少ないからであろうか。この島にも船を所有するかどうか、その所有する船の大きさなどからみて貧富の差がかなりあるであろうに、家の敷地やその大きさに殆ど差異がないように思われた。三島がこの島を舞台として素直すぎるほど素直な若い男女の純愛物語の舞台として選んだのは、あるいはこの点にあるのかもしれないと思った。

金嬉老の事件が生じたのは、私がまだ名古屋大学の大学院生の頃であった。その頃の私は、国際私法学者として著名であられた山田鐐一教授の指導の下で、国際相続法を研究しようとしていた。相続は親族関係に基づき死者を承継するという意味では親族法に関連し、死者の属人法、わが国においては被相続人の本国法によるべき法律関係である。しかし、死者の財産の承継という意味では財産法に関連し、属地法、つまり相続財産所在地法によるべき法律関係である。当時の国際私法学においては、親族関係については属人法により、財産関係については属地法によるというのが当然の前提とされていたので、国際相続法は属人法と属地法の交錯する分野といえた。しかし、わが国の国際私法に関する制定法上は、「相続は被相続人の本国法による」という1カ条があるに過ぎなかった。英米法においては、死者の財産を清算、管理する遺産管理と残余財産の近親者への分配に関する相続が国内事件においてだけではなく渉外的な事件においても区別されていた。前者については財産所在地の裁判所が管轄権を持ち、財産所在地法が適用され(所在地理論)、後者については不動産については不動産所在地法により、動産については死者の住所地(domicile)の法が適用されるものと考えられていた。しかし、よく調べてみると、そのように単純に考えることに疑問が生じてきた。遺産管理においても所在地理論で妥当な解決が難しい問題、例えば、完済不能の事例が生じるので、住所地理論によるべきとする有力が学説があった。また、相続についても死者が遺言により相続に適用されるべき法を指定した場合には、その指定した法によるべきとして、当事者自治を認める有力な州(例えば、ニューヨーク州)があった。これらを踏まえて、わが国の規定をどのように解釈すべきかにつき悩んでいた。果たして国際私法学を一生の仕事として研究し続けることができるか、自分の進路に迷っていた。修士論文をすでに提出しており、名古屋大学法学部の助手になることを目指していたが、山田教授は留学中であり、その論文の評価がどうなるのかよく分からなかった。論文の内容については留学中の先生にご迷惑をかけたくなかったので、教授の指導を受けることなく自己流に書いた。それだけにその論文が果たして助手採用の要件を満たすものになっているか全く分からなかったのである。

当時の国際私法の講義で示される例の多くが欧米諸国に関するものであり、当時日本の裁判所に係属することが圧倒的に多かった在日韓国・朝鮮人、在日中国・台湾人をめぐる問題を例として挙げることがほとんどなかった。このような「在日」の問題に言及すると、それぞれの在日の民族団体の関係者が在学する学生を連れて研究室を訪れて、議論の真意を糺される雰囲気があった。社会科学としての法律学の学問的立場から論じているのであって、政治的意図を含むものではないといえるが、「社会科学としての法律学」の立場からみれば本当にそうなるのかについて確信をもって説得する自信を得ることはできていなかった。このように「在日」をめぐる国際私法問題が日本社会の国際化において重要な問題であると認識していたにかかわらず、当時の私にとって敢えて議論することが難しい問題であった。このような勇気さえ持てない中で果たして国際私法学者として日本の学界に有益な貢献などできないのではないかと思い悩んでいたのである。金嬉老事件が私の脳裏の片隅に深く刻まれていたのは、あるいはその当時の私の追い詰められた厳しい状況に関連したのかもしれない。ともあれ、私の研究生活の出発点となった青春時代を振り返る旅をしてみたいと思ったのである。

9月1日9時30分頃豊島区の家を出て、新幹線で静岡に着き、11時11分発の島田行きの普通電車に乗り、島田で浜松行きに乗り換えて、金谷駅で大井川鉄道に乗り換える。金谷駅で大井川鉄道やバスを2日間自由に乗り降りできるパスを4000円で買い、12時19分発千頭行きの如何にも古い車両の感じがする2両編成の電車に乗る。大井川のゆったりした流れといろいろな山容の山々のすそ野に広がる茶畑、無人駅を彩る信楽焼の大小のいろいろな表情をした狸などをぼんやりと眺めていると、50分ほどで千頭駅に着く。千頭駅は、子供達に人気があるトーマス号などの展示会した「きかんしゃトーマスフェア」を開催しており、それにちなんだいろいろなおもちゃや菓子を販売する売店なども出て、小さな子供達を連れた家族などでごった返していた。バスの時刻表を確認することなくそのような駅の周辺を散策しているうちに13時発の寸又峡温泉郷行きのバスが目の前で出て行ってしまい、次のバスの発車時間15時まで時間がある。昼食として駅近くのゑびすや食堂で鰻丼と盛蕎麦の定食を食べる。丁度空腹を満たすによい量をおいしくいただいた。また、千頭茶という看板を掲げた店で抹茶の氷水を食べる。冷たく爽やかでおいしく感じられた。

寸又峡温泉行きのバスは、全行程の3分の2くらいはくねくね曲がった山道をゆっくり走る。1車線しかないので対向車と戻ってすれ違う必要がある箇所も少なくない。かなり高い山の中を走り、谷が深く、慣れていない人には運転が難しいのではないかと思われる場所もある。そのようなバスに40分以上も揺られていると、いかにも山深い、最果ての地に来たような気分になる。トンネルを抜けて寸又峡温泉の近くに来ると、少し広い道に出てほっとする。バスの終点には、昭和30年代まで走っていたという森林鉄道の車両の展示、水車小屋、南アルプス山岳図書館、休憩所や案内所などがある広場がある。バス停から温泉街への道は少し緩やかな登り坂になっている。坂に向かって右側のバス停近くにこの温泉街では大きな旅館の一つである翠紅園がある。私は、バス停から比較的近い「深山」という民宿に予約してあったので、そこに荷物を置いて温泉街の遊歩道を散歩する。「ふじみや」旅館は、2010年旅館内に金嬉老事件の資料館を設置したが、2012年1月女将さんの高齢化などから廃業して、現在ではなくなっていた。温泉街の奥には、湖面から8メートル、全長90メートルの「夢の釣り橋」に至る道路がある。天子トンネルを抜けて、この辺から見える山では最も標高の高い前黒法師岳(標高1943メートル)の方向に向かうコースを行く。この釣り橋の真ん中で恋愛の祈願をすれば恋愛が成就するという。入口の門からはかなり距離があるが、「世界の徒歩吊橋10選」に選ばれたこともあってか、若い女性を中心に人気がある。その門から戻り右手の小さな川のそばの急な坂道を登ると、町営の露天風呂がある。入浴券400円を自動販売機で購入し、それを管理人に渡して入浴する。底がぬるぬるした滑りやすい岩風呂である。少しぬるめの温泉水は、これまであまり経験したことがないほど肌にまとわりつく、濃いアルカリ性の、美人の湯といわれる性質のものである。ゆったりとつかり、この山奥でなければ味逢うことができない湯の感触を楽しむ。金嬉老もあるいはここまで逃げてきて自分の人生の旅の終点を感じ、あのような行動に出たのかもしれないと勝手ながらに思う。

私はその後私の研究生活を支えてくれる妻に巡り合い、3人の子供と5人の孫に囲まれて平穏な老後の生活を送っている。今回の小旅行を通じて自分の人生をかけて主張したかったことは何であったのか、改めて考えさせられた。敢えて弁明をしようとすれば、それはわたくしのこれまでの学問的業績に表れているといえるのかも知れない。しかし、なお本当に私が主張したいことがただ私の頭の中にのみあり、研究業績として表現できていないという感覚が強く残っている。体力が落ち、若い時のような精力的な仕事はできそうにない。でも、若い時に欲しかった自由な時間が十分に与えられている。私の人生も終盤に近付いているのかも知れない。とはいえ、命が与えられている限り、自分に課した目標を達成できるように少しでも努力したいと改めて思う。

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